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八尾の山里で暮らした少年時代〜1970年代

 私が生まれ育ったところは、旧八尾町の西部に位置する室牧地区の「天池」という集落。八尾町の中心部から約5km離れた標高200m弱の山麓に開かれた小さな村です。集落の西側と南側は山を背負い、北側と東側は昭和30年代に開拓された棚田が広がり、晴れた日は立山連峰が望めるたいへんロケーションのいいところでした。

 1963年に生まれた私が小学校に入学したのは1970年。ちょうど大坂万博が開催された年です。高度経済成長期の後半で、都市部では、かなり豊かな生活になりつつあったのだろうと思いますが、私の住む山里はまだまだ貧しい生活だったと思います。集落を走る幹線道路はまだ舗装されていなかったし、自家用車を持っている家庭はほとんどいなかったし、テレビは白黒、トイレは汲み取りでした。農業面で言えば、田起こしは耕運機、田植えは手植え、もちろん稲刈りは手刈りという状況で、食事についても食卓にのぼるおかずも自宅で取れた野菜が中心で、牛肉を食べれるのは年に数回だけという今から思えば貧しい食生活でした。

 そんな山里で1970年代に小学生時代を過ごした私でしたが、今から思えば、一番、生き生きと過ごしていたような気がします。 当時は、今とは違い、ゲームなんてないから、私達子供の遊びといえば、野山や川で遊ぶことで、それが一番の楽しみでした。今、大人になり、自分の子供がゲームやテレビに夢中になり、自然と遊ばずに過ごしている姿をみていると、これでいいのかなあと思ったりします。今の子供たちに昔と同じように過ごせというつもりはありませんが、どのようにして山里で過ごしていたかを知ってもらいたいと思います。

 ということで、このページでは、八尾の山里で暮らした少年時代の生活・遊びを紹介したいと思います。



春 〜 山菜採りが一番の楽しみでした

[ 山菜 採り]

 山里に暮らす少年たちにとって、春の遊びといえば、なんといっても山菜採り。フキノトウから始まって、アサツキ、ゼンマイ、ワラビなどを採りに村の子どもたちが連れ立って野山に入りました。
 まず、春一番の山菜はフキノトウ。長かった冬に終わりをつげるかのように、フキノトウは2月の下旬頃から雪が溶け出した田んぼの法面や崖地にぽつぽつと顔を出し始めます。この出始めたばかりのフキノトウを誰よりも先に採ることが楽しみでした。採ったフキノトウはフキノトウ味噌や和え物、天ぷらなどに。子供にとっては、特別おいしいというわけでものないのですが、子供にとっては、採ることが楽しみでした。でも、フキノトウは3月上旬まで。3月中旬になり、雪が溶け、春が本格的にやってくると、村じゅう、いたるところにフキノトウが顔を出します。こうなると、もう誰もフキノトウに見向きもしません。やっぱり、フキノトウは珍しいうちが花。長かった冬に終わりを告げるかのように、雪解けの大地から顔を出したばかりの頃が一番喜ばれる山菜なのです。

 フキノトウの季節が終わって次にやってくるのが3月下旬の「アサツキ」採り。「アサツキ」は正式な名称で、私達八尾の人間はなぜかすこしなまって「アサツケ」呼んでいます。「アサツキ」を知らない人のために少し説明しますと、いうなれば、野山に自生している野生の短いネギ。子供たちがけっして喜んで食べる山菜ではないのですが、私にとってはアサツキ採りは楽しみでした。暖かい早春の光を浴びて、山の斜面一面に生えているアサツキを小さなシャベルで掘り起こして取り出す作業が楽しみでした。
 アサツキ採りのポイントは絶対に根を切らないこと。切ってしまえば、商品価値ゼロ。自宅で食べるだけなのですが、できるだけ根を切らさないように上手に掘り起こす。これがなかなか子供にとってはたいへんでした。そして、もうひとつだいへんなのがアサツキを採り終わってからの作業。春先のまだ冷たい水で根についた泥を洗い落とし、そのあと、一本一本根を切り落とさなければなりません。これが一番たいへんな作業でした。とはいっても、かなりこの作業は、祖父母や両親にこの作業をやってもらっていましたが。
 収穫したアサツキの調理方法はアサツキ味噌と酢の物。とりわけ、酢の物は富山湾の春の風物詩:ホタルイカと合えた酢の物は絶品で、今でも私の大好物の一つです。
 山に入り、アサツキ採りに飽きると、暖かい早春の春の日差しを浴びながら、草の上に寝転がって空と森を眺める・・・・そんな春の日の一日が今から思えばたいへん幸せだったような気がします。

 4月に入り、平野部でソメイヨシノが花をつけ始める頃、里山もいよいよ春本番で、カタクリやキクザキイチリンソウ、ショウジョウバカマ、キジムシロなどの山野草が可憐な花を咲かせ始めます。とりわけ、今では林道の設置で群生地はかなり減りましたが、カタクリの花が森の斜面一面に咲き乱れる風景はとてもきれいでした。とはいいながら、少年時代は山野草の花にそれほど関心もなく、もっぱら、関心のあるのは、カタクリの花が終わる頃から出始めるワラビです。ワラビはゼンマイと違ってそれほど山の奥にはいらなくても、休耕田やその斜面に生えているので、少年たちにとっては簡単に採れる山菜で、今と違ってけっこうどこにでも生えていたような気がします。とにかく、4月中旬から5月初旬にかけてワラビ採りが一番楽しい遊びでした。

 ワラビで思い出すのは、私の通っていた室牧小学校の行事で、毎年、5月にワラビ狩りという行事がありました。たしか、低学年と高学年に分かれて2箇所に別れて行ったような気がします。弁当を持参し、先生に引率されて、ワラビを採る場所までに約1時間歩き、そこでみんなそれぞれワラビを採りました。採ったワラビはそのまま学校に持ち帰り、学校で全部集めて、学校がそのワラビを町内の八百屋さんに販売し、その売り上げ金で、ボールなどの学校教材を購入していました。今から思えば信じられないような気がしますが、教育予算も少ない時代で、山里の学校ならでは収益とレクリエーションを兼ね備えたイベントだったのだと思います。
 また、ワラビを採る場所は高学年の場合は、山のほうだったと思いますが、けっこう自由に子供たちに山の中に入らせていました。今の時代だったら、このような行事をすれば、怪我をした場合の責任だとかいろいろやっかいな心配ごとが出てくると思うのですが、そのときは先生に厳しい注意をされることもなく、全く自由だったと思います。今から思えば、その点に関しては、のんびりした時代だったというか、当時の先生たちの理解があったのですね。

 ワラビに関して、もう一つの思い出は、ワラビを販売して、生まれて始めて自分でお金を稼いだということでです。たしか、6年生の頃だったと思いますが、近所の少年たちといつもワラビを採る場所と違う奥の山のほうに出かけ、長くて太いワラビをたくさん採ってきました。家に持ち帰り、祖父に見せると、家ではこんなにたくさん食べれないから、八百屋で売ってきたらどうだとアドバイスされ、祖父にワラビをきれいに切りそろえてもらい、近所の少年たちと一緒に、自転車に乗って、町の中心部にある親戚の八百屋にワラビを売りに行ってきました。販売額はたしか1000円ほどだったと思います。今から思えば、ワラビシーズンの最盛期だったので、ほんとうの売値はもっと安かったのかもしれませんが、親戚の子供ということで、おじさんがおまけして高く購入してくれたのかもしれません。いずれにしてもうれしかったですね。自分で始めて稼いだお金ですから。しかしながら、ワラビを売ったお金は、その日のうちに、八百屋さんの近くの本屋で、前からほしくてたまらなかった釣りのマニュアル本を購入して使ってしまいました。その本は当時から35年たった今でも私の本棚にしっかりと保存してあります。

 ワラビと同時進行で、ゼンマイも採りに行きましたが、こちらのほうは所詮子供ですので、なかなか太いゼンマイを大量に採ることはできませんでした。やはり、ゼンマイは奥山のほうに行かないといいゼンマイは採れないですね。祖母や父がザックいっぱいにゼンマイを採ってくる姿を非常にうらやましく思っていました。ただ、祖母や父が採ってきたゼンマイの「綿毛取り」はよく手伝わされました。この綿毛を取る作業を我が家では「ゼンマイをこさえる」といっており、家族全員で、車座になってゼンマイをこさえる風景がこの時期の風物詩でした。

 ワラビ、ゼンマイ以外にも4月中旬からコゴミ、タラノメ、コシアブラ、フキ、ヨシナ、ウド、ススタケなどの山菜が採れますが、少年達が採れるのはワラビ、ゼンマイぐらいでした。それに、当時はなぜか我が家はコゴミやタラノメは誰も採りませんでした。まして、コシアブラなんて最近食べれることを知った山菜ですから。

 いずれにしても、山菜採りは山里に暮らす少年達にとって楽しいレクリエーションでした。ただ、近所の上級生たちはもう5年生くらいになると、山菜シーズンは耕運機での田起しなど農作業を手伝わされようになり、山菜採りから離れていったような気がします。私の場合は、田んぼがわずかしかなかったので、山菜シーズンに農作業の手伝いを命ぜられることもなく、休みの日になれば、しょっちゅう山に行っていました。中学生、高校生になっても、近所の人達が農作業で忙しそうにしているのを尻目に、1人で山に入り、山菜を採っていました。これは、大人になった今でも続いており、わずかの田んぼの農作業を70代の父親にまかせ、野山を駆け巡っています。


[ 春祭り・獅子舞]

 小学校4年生のときに、我が河西集落(天池集落と4つの集落が一緒になった町内会)において、15年ぶりに獅子舞を復活させようということになり、その復活第1号の獅子取りに選ばれたのが私でした。もちろん、15年ぶりの獅子舞ですから、当時10歳の私は生まれてから一度も獅子舞なんてみたこともなかったのですが、とにかく、獅子取りの技術を覚えなければならないので、2月の中旬頃から大人に混じって毎日練習しました。当時の獅子取りは一人体制だったので、練習のときは小学生は私1人でなんだか寂しかったような記憶もありますが、それでも、大人に混じって練習するというのはなかなか有意義だったような気がします。時折出てくる大人たちの下ネタ会話もどきどきしながら聞いていたような気がします。

 お祭りの本番は4月2日。当日は午後2時ぐらいに公民館を出発して、神社・忠魂碑・お地蔵様で9箇所、各集落の獅子宿(班長の自宅)が4箇所、招待した家数件で獅子舞を行い、最後に終わったのが翌日の朝4時過ぎ。15年ぶりの獅子舞復活ということでかなり盛況な春祭りだったと思います。たしか、最後の獅子宿が我が家で、さすがに子供だった私は最後まで獅子舞ににつきあうことができず、リタイアしたような記憶があります。

 いずれにしても、みんな若かったですね。当時、獅子舞の中心メンバーだった青年会の人達も今では55歳から60歳過ぎ。でも、みんな元気ですね。

 昭和49年に復活した獅子舞も平成8年には人手不足から休止となり、笛の音が聞こえない寂しい春祭りが続いていましたが、昨年、有志一同の団結により、11年ぶりに獅子舞を復活しました。平均年齢が50歳を超える獅子舞チームですが、みんな元気にがんばっています。


[ 田植え]

 我が家は祖父が分家して所帯を構えた家なので、田んぼの所有面積はわずか20a弱で、作るお米は自家消費用で、いわゆる飯米農家・水のみ百姓した。近所の家はみんなそれなりの面積の田んぼを耕作していましたので、子供ときから農作業を手伝っていました。一方、我が家は田んぼの面積が少ないこともあって、近所の少年達とは違って、農作業をそれほど手伝わされることもなく、かなり自由に育てられたと思います。それでも、農家なので、それなりに多少は農作業は手伝っていたというか、農作業をしている家族の周りをうろうろしていたと思います。

 春の農作業のメインはやはりなんといっても田植えです。当時、田植えはいまほど早い時期ではなく、5月下旬頃ではなかったかと思います。当時は、田植え機なんていうものはないので、すべて手植えです。手植えとなると、その家族だけではすべて対応することができませんので、当時は、近所の農家の女性に田植えを手伝いに来てもらい、そのかわり、次は手伝いに来てくれた農家の田植えを手伝いにいくという、いわゆる社会科で習った「結い」という制度で田植えが行われていました。
 
 我が家のような田んぼの少ない農家でも、家族だけの労働力では田植えが対応できませんので、母や祖母が近所の田植えに手伝いにいくかわりに、近所の女性の方々が田植えに手伝いに来てくれていました。記憶があいまいなのですが、たぶん、我が家の田植えはいつも平日で、私達子供の出番はほとんどなかったと思います。ただ、田植えで印象的なのは、田植え作業のおやつとして(私たちの地域では「こびる(小昼飯を略したものと思われます)」と言っていました)、菓子パンを大量に買い込み、それを作業に出ていただいた方々に渡すのですが、いくつか余った菓子パンを子供たちがもらえるというのが、なぜかうれしかったのを記憶しています。今から思えば、たかが菓子パンなのですが、山里の貧しい子供にとっては、普段の生活において、菓子パンなんて、なかなか買って食べさせてもらませんでしたので、田植え=菓子パンというふうにインプットされ、春の一大行事として認識していました。

 ところで、田植え時期の食べ物といえば、八尾地域の郷土料理に「ほうばまあま(朴葉飯)」とうものがあります。これは、黄な粉のかかったおにぎりを朴木の葉で包んだ食べ物で、田植えの「こびる」としての定番メニューでした。我が家の田植えにこの「ほうば飯」がでていたかどうか記憶はありませんが、5月下旬頃は必ず食べていたと思います。普通の感覚では、甘い黄な粉のかかったおにぎりなんて、気持ち悪くて食べれないと思われるかもしれませんが、朴木の若葉の香りに包まれた「ほうば飯」は、絶妙な味で、私にとっては、新緑の季節にかかせない味覚となっています。

[ 山羊(ヤギ)]

 春という季節のもうひとつの思い出として、山羊があります。我が家では、私が小学校6年生になるまで、自宅で山羊を1頭飼っていました。当時、室牧地区においても、山羊を飼っている農家は少なく、我が家のような水のみ百姓がなぜ飼っていたのか、今から思えば不思議ですが、たぶん、祖父が山羊の乳をとるために飼育していたのでしょう。
 山羊は一年中飼育していたのですが、なぜ、春の思い出として記憶しているかというと、春には子供を出産するからで、子山羊にえさをやったり、一緒に田んぼの周辺で遊ばせたりしたことが春の思い出として鮮明に記憶しているからです。しかし、この子山羊と過ごせる日々もそれほど多くはありませんでした。春の終わり頃になれば、子山羊は親山羊から離され、町内で山羊をかなり飼育している農家に引き渡されます。子山羊が我が家から連れ出された日、親山羊が一日中、子山羊のことを思って、メェー、メェーと鳴いている姿は今でも覚えています。

 山羊といえば、私の少年時代の家仕事のひとつに山羊ミルクの配達がありました。同じ集落内の2戸の農家に毎日、絞りたての山羊のミルクを配達していました。ミルクを入れるビンはたしかカルピスの空き瓶だったと思いますが、山羊の乳搾りは、朝と晩の2回行われ、それを空き瓶につめて配達していました。山羊の乳搾りについても、小学校の高学年くらいになると、夕方の乳搾りは私と姉の仕事として命じられ、姉と二人で毎日、乳搾りをしていました。山羊の乳絞りの方法は、今でも覚えています。まず、一升瓶の口を山羊の乳首の先にあて、親指と人差し指で山羊の乳首の根本を握り、そのあと、中指から順番に指を折って絞っていくという方法でした。そして、一回で絞る量は、約一升瓶1本ほどだったと思います。そして、絞ったミルクは、近所へ配達する分を取ったあと、毎晩、家族で飲んでいました。達磨ストーブが置いてあるいろりの間に家族全員が集まり、達磨ストーブにかけてある大鍋に山羊のミルクを入れて沸かし、それを湯のみ茶碗に汲んで、飲んでいました。たぶん、夜の8時頃だったのでしょうか。今から思えば、その時間が我が家の家族団欒のひと時だったのでしょう。

 余談ながら、私は中学生になるまで、牛乳というものをほとんど飲んだことがありませんでした。自宅で山羊を飼っているので、家族の者がお店で牛乳を買ってくるということはほとんどありませんでしたし、学校給食で出されるものは、脱脂粉乳でした。まあ、脱脂粉乳も牛乳の一種といえば、牛乳を飲んでいたことになるかもしれませんが、なぜか子供心に瓶に入った牛乳に憧れていました。今では瓶牛乳も珍しい時代となりましたが、山羊の乳しか飲ませてもらえなかった少年のささやかな望みが瓶牛乳だったというわけです。ちなみに、山羊の乳を飲んだことのない人に山羊の乳の味をご説明いたしますと、なんというか少し青臭い味がしたと思います。とにかく、生のままでは絶対に飲まず、かならず、一度、沸かしてから飲まなければならないものでした。それにしても、山羊を育てていた時代が懐かしいですね。できれば、もう一度、山羊のミルクを飲んでみたいものです。


夏 〜 青空・太陽・入道雲が大好きでした

 [ ササユリ ]

 梅雨入り前の6月上旬の頃における少年達の野山での遊びは「ササユリ」採りでした。ササユリなんか採っても、食べれるわけでもなく、まして、山野草を眺めて暮らす風流な心もないのですが、なぜか、山里の少年達は「山で採れるものは採る」という心構えがあったのか、ヤマユリをよく採りに行きました。当時は、近くの野山は、雑木林を伐採し、杉の苗を植林したばかりのところが多かったので、杉をを植林したばかりのところに行くと、一面にササユリが咲いていました。みんなでササユリ採りに行って、一番ポイントの高いことは、3つ以上の花をつけたササユリをゲットすること。三つの花をつけたユリを見つけたときは最高の気分でしたね。とにかく、今みたいに自然保護とか山野草保護とかという観念はありませんでしたので、ササユリを見つけ次第、茎を折って採っていました。ただ、球根はとりませんでした。球根だけは、祖父母や両親から、球根を採ってしまえば来年、花が咲かなくなると教えられていましたので、これだけはきちんと守りました。
 
 さて、採ったササユリはどうしかというと、翌日、新聞紙に包んで小学校に持っていきました。なんで、学校に持っていったのかよくわからないのですが、結局、自分がこれだけユリを採ったんだと自慢したかっただけなのでしょう。学校に持っていったユリは学校の教室の花瓶にいけられ、しばらくは、教室の中にユリの匂いを漂わせていました。

 しかし、子供の頃、あんなにたくさん咲いていたササユリも今ではほとんど咲いていません。当時、植林されたばかりの杉も30年以上が経過して、今ではすっかり大きなり、ユリが咲いていた場所は明るい草原から、暗い杉林と変わり、かろうじて何本かのササユリが咲いているだけとなりました。子供の頃にあんなにササユリが咲いていた風景が夢のようです。

 ところで、余談をもうひとつ。少年時代の思い出ではありませんが、今から11年前、今の嫁さんの両親に始めて結婚の申込挨拶に行った日、なにか手土産がないかと思案したあげく、考えつたのが、ササユリを持っていくことでした。その日の朝、子供の頃にササユリを採った場所を駆けずり回り、罪の意識を感じながら、ササユリを採って、嫁さんの家に持っていきました。ササユリの花束攻撃がきいたのかどうかわかりませんが、なんとか彼女の両親に結婚の承諾をいただくことができました。それにしても、今ではササユリを眺めるだけでほとんどとらないようにしている私ですが、そのときばかりは、普段の自然保護主義を無視して、ササユリをけっこう採ってしまい、ほんとうに悪いことをしたなあと反省しています。


 [ キイチゴ ]

 6月の野山でのもうひとつの楽しみはキイチゴ採り。私達の採ったキイチゴの正式名称は「モミジイチゴ」で、葉っぱがモミジの葉と同じような形をしていて、オレンジ色の実をつけるトゲがある低木のキイチゴです。このキイチゴ採りももりあがりましたね。山に入って、キイチゴの木を見つけ次第、なっている実をひたすら採って食べる。まるで、熊か猿にでもなったかように一生懸命採りました。

 イチゴの実を一個ずつ食べるのもよし、手の中に溜め込んで実をまとめて食べるのもよし、とにかく、ひたすら食べました。特に大きいイチゴがなっている木を見つけたときは最高でしたね。キイチゴ採りは特別に意気込みをを持って山に入るのではなく、なんというか日常生活の延長。学校から帰ってからだけでなく、片道約20分の通学路の道すがら、道端にキイチゴがあれば、学校へ行くときだろうが、帰りだろうが、みんなで一生懸命採りました。

 
 [ クワの実 ]

 キイチゴの並んで、6月の野山での食べ物として、クワの実があります。クワの実のことは、私達の地域では、「カンツ」と呼んでいました。これも山里に暮らしている少年達にかかせない山里の味覚でした。私が小学生の頃は、もう養蚕を行っている農家は、わずかしか残っていませんでしたが、クワの木はところどころに残っており、私達が特にお気に入りの木は、通学路の途中にあるクワの大木で、学校の帰りによくその木によじ登り、クワの実を食べました。クワの実を食べ過ぎるとお腹を壊すと家族から言われていましたが、私達はそんなことも気にせずに、口の周りを紫色に染めながら食べまくっていました。ただ、クワの実採りに気をつけなければならないのは、時々、クワの実にカメムシの子供がくっついていることであり、カメムシに気づかずにクワの実を口に入れたりしたときは、最悪でした。


[ ホタル ]   

 6月の風物詩といえば、ホタルです。最近、新聞やテレビでホタルが増えてきたといって大騒ぎしていますが、私達が子供の頃は、ホタルのいることが当たり前で、家の周りの田んぼに本当にたくさん飛んでいました。ホタルが飛び始めるのは6月中旬の頃。家の周りにいたホタルは光の小さなヘイケボタルでした。夜、8時頃になると、子供たちは手にほうきやバトミントンのラケットなどを持って、田んぼのあぜ道を進みます。別段、近所の子供たちと待ち合わせしたわけでもないのですが、みんなが自然と集まってきます。そして、ほうきやラケットなどでホタルを捕まえ、家から持ってきたのりの佃煮が入っていた空き瓶などに入れて、家に持ち帰りました。瓶に入れたホタルは、家の座敷の奥で、電気もつけず真っ暗にして、ホタルの光を眺めていました。もちろん、捕まえたホタルはその後、もとの場所にはなしました。

 小学生時代にたくさんいたホタルもたぶん、私が中学生のなる頃からだんだんと減っていきました。たぶん、原因は水稲の農薬散布、とくにヘリコプターによる空中散布が原因だったと思います。大学を卒業してこちらに戻ってきたときは、ほとんどホタルを見つけることはできない状況になっていました。しかし、その後、ヘリコプターによる農薬の空中散布がなくなり、少しずつホタルが増えてきました。まだまだ数は少ないのですが、もう一度、子供のときに眺めた風景が蘇ることを待ち望んでいます。


[ 川遊び〜ウグイの手づかみとヤス漁〜 ]   

 山里少年の夏の定番の遊びといえば、普通は「川遊び」なのですが、私の場合は、近くの室牧川にダムができていて、水量は少ないうえにあまりきれいとはいえない状況であったとともに、学校から川での遊びは厳しく禁止されていたため、川で泳いで遊んだことはありませんでした。ただ、川の近くの住んでいる同級生達はダムのない野積川や室牧川と合流して水量の多い井田川でけっこう川遊びをしていたようなのですが、私の場合は、川から離れた山腹に住んでいたこと、それとあまり泳ぎが得意でなかったことから小学校の高学年の頃までは、川から離れた生活を送っていたというわけです。

 しかしながら、5年生ぐらいになると、川遊びの得意な同級生から、「ウグイの手掴み」を教えてもらい、けっこう遊びました。ウグイの手掴みは5月下旬から6月上旬頃。産卵期を迎えたウグイが体面に朱色の婚姻色をつけて、川に上って来るのを手掴みや三叉の銛(私達はヤスとよんでいました)で捕まえました。
 この時期、産卵を控えたウグイのことを私達の地域では「フジバナ」と呼んでいました。富山県の西部のほうでは、「サクラウグイ」と呼んでいるようですが、たぶん、八尾地域のほうでは、藤の花が咲く頃に産卵期を迎えるので「フジバナ」とよんでいたのだと思います。 

 さて、手掴みについてですが、手掴みは泳いでいる魚をそのまま捕まえるのではなく、石の下に潜んでいる魚を両手で頭と尻尾のほうをぐいと握りしめて捕まえます。この魚を握りしめるこの感触がたまりませんでしたね。石の下に手を入れるとたくさんのウグイが固まって入っており、それをおもむろに握って捕まえるのです。それにしてもたくさんウグイがいたと思います。大人になってしまった今では、釣りを趣味としている私にとっては、ウグイは外道中の外道なのですが、小学生にとっては、捕ることがたのしい魚でした。もちろん、捕まえた魚は、その場で、みんなで焚き火をして焼いて食べました。小骨が多く、けっしておいしい魚ではないのですが、焚き火で焼いたウグイはうまかったですね。

 手掴みのほかにヤスでもウグイを捕まえました。水中ネガネで水の中を覗き込みながら、魚を見つければ、狙いを定めて、手元で引っ張ったゴムを離し、先端の銛の部分で魚の胴体を突き刺しました。これも野生の血が騒ぎましたね。うまく魚に命中して突き刺さったときはとてもうれしかったと記憶しています。6年生ぐらいになると、野積川にも出かけ、何匹かアユを刺したこともあったと思います。ただ、アユはウグイと違って刺すのはなかなか難しかったですね。しかし、今から思えば、アユをヤスで捕まえることは違法なのでしょうが、当時はそれほど厳しく言われませんでした。

 中学生になっても、1年生のときは、夏に何回かヤスを持って中学校で仲良くなった新しい同級生たちと川に遊びに行きました。しかしながら、あるとき、野積川に遊びに行ったとき、同級生たちは、ヤスで何十匹ものウグイを刺しながら、焚き火で焼いて食べるのはアユだけで、殺したウグイはすべてそのまま捨てていました。その姿をみたとき、「もう川で魚を刺すのはやめよう」と決心しました。
 小学生のときは、同級生のうちでは、捕まえた魚は必ず食べるが鉄則でしたが、中学生になり、町部出身の同級生たちは、遊びだけで魚を殺すという行為を平気で行っているようでした。私には、子供心にこれが許せませんでした。それに、当時、私は、かなり渓流釣りにはまりつつあったので、魚との勝負は竿と糸と針だけにしようと、このことを契機にヤス漁から戦線離脱したのでした。

 それにしても、大人になった今、もう一度、手掴みやヤスで魚を捕まえてみたいなあと思っています。テレビでお笑い芸人が海で銛を使って魚を捕まえているのを見るとうらやましくなります。しかしながら、漁業組合が定めている川での漁法には、手掴みやヤスでの漁は認められていませんので、今、そんなことをして誰かに見つかれば、警察にお縄になりますね。

 ところで、それともうひつ川遊びで印象深いのは、水中眼鏡をヨモギの葉を潰してガラス面をを拭いて、曇らないようにすることを覚えたことでした。このことは同級生から教えてもらったのですが、たぶん、彼も地元の上級生に教えてもらったのだと思うのですが、こういう伝統の裏技が脈々と伝えられていっていることがなぜか感動的に思えるのでした。

[ カブトムシとクワガタムシ ]   

 少年の夏の定番はなんといってもカブトムシとクワガタムシ採り。これは小さいときからはまりました。私達がよくクワガタムシを捕まえたのは、自宅の近くのカエデ(モミジ?)の大木でした。毎朝、近所の子供たちが集まり、5,6年生が猿のようにこのカエデの大木によじ登り、木を揺らします。そうすると、木につかまっていたミヤマクワガタやノコギリクワガタがばたばたと地面に落ちてきて、それを低学年の私達が拾うという構図でした。このカエデの大木でけっこうクワガタを捕まえることができました。ただ、残念なことに、この大木はたしか私が小学校2年生の頃に、伐採されてしまい、一度もこの大木に登る経験ができなかったことでした。

 次に狙いをつけたのは、となりの集落の谷沿いにあるサワグルミの木でした。この木の根元では、早朝に行けば、必ず、カブトムシやミヤマクワガタなどを捕まえることができました。小学1年生の頃は、父がこの木でカブトムシを捕まえてくてくれたのですが、2、3年生くらいになると自分で探しに行きました。ここで気をつけなければならないのは、カブトムシといつも一緒にいるスズメバチでした。これに刺されるとひとたまりもないので、ハチを刺激しないように、カブトムシを捕らなければなりませんでした。

 4、5年生くらいになると、カブトムシを探す範囲も小学校のエリアである室牧地区全域に広がりました。友達と夏の炎天下のもと、うろうろと探し回りました。でも、あまり大物をゲットした記憶は残っていませんね。

 6年生のときだったと思いますが、カブトムシを幼虫から育てたことがありました。自宅から40分ほど離れた集落にシイタケを栽培している農家があり、そこのオガクズの堆積場にたくさんのカブトムシの幼虫がおり、友達と一緒に50匹ほど捕ってきました。捕ってきた幼虫は自宅でオガクズを入れた木箱に入れて育てました。しかしながら、無事に成虫となったカブトムシは雌の一匹だけでした。残りはすべて死んでしまいました。原因は、そのあと判明したのですが、いうなれば、幼虫をかまいすぎたこと。成虫となって出てくるまでそのままにしておけばいいものを、子供ですから、途中で何回も木箱をほじくり返し、幼虫やさなぎを傷つけたりしたことで幼虫やさなぎが死んでいきました。今から思えば、50匹もいた幼虫をほとんど死なせてしまい、かわいそうなことをしたものです。

 カブトムシの思い出をもう一つ。4年生の頃だったと思いますが、となり集落に住む2つ上の上級生がクヌギの木に蜜を塗ってトラップをしかけたから一緒に見に行こうと誘われ、見に行ったときです。藪を掻き分け、そのクヌギの木にたどり着くと、1本の木に20,30匹のカブトムシが群がっていました。あとにもさきにも、1本の木にあれだけのカブトムシが群がっている光景はそのときが最初で最後でした。

 ところで、私の大好きなクワガタの種類はノコギリクワガタ。大きなはさみと黒光りする色。大人になった今でも、ノコギリクワガタをみるとときめきますね。昨年までは小学生の息子とクワガタムシを探しに行ったのですが、今年は、息子は虫捕りを卒業したらしく、一度も捕りに出かけませんでした。


[ ショウライ ] 

 山里の少年達にとっての夏休みの一大イベントに「ショウライ」があります。「ショウライ」とは、お盆の8月13日に行う迎え火のことで、大きな孟宗竹に藁をつけて燃やし、先祖の霊を迎えるという昔ながらの行事です。漢字で書くと、霊を招くと意味からして「招霊」と書くのか、それとも「精霊」と書くのかよくわかりませんが、とにかく、この「ショウライ」という行事では、かつては八尾地域ではどこの集落でも行われていたと思います。

 ※ 今ほど八尾町の歴史をまとめた「八尾町史」で調べてみると、ショウライとして孟宗竹にを立てて火をつけるのは、八尾地区の一部と室牧地区だけだそうです。

 さて、私の住んでいた「天池」集落では、この「ショウライ」を行うのは小学生と決まっていました。まず、8月13日の朝に小学生が集まり、竹林を所有する農家の家へ行き、なるべく大きな孟宗竹を切り倒します。そして、その竹をショウライを設置する場所に運びます。そのあと、みんなで手分けして、集落内の農家を回り、藁を貰い受けます。貰ってきた藁の一部は、さきほど運び込んだ孟宗竹の枝に縛りつけ、その孟宗竹を掘った穴に立てて完成です。竹の本数は子供たちの人数が多かった頃は3本ほどの竹を組んでいたと思いますが、私が高学年になる頃は子供の人数も少なく、1本だけを立てていたと思います。また、ショウライには、七夕の竹も集めてきて、一緒に燃やすことにしていました。

 午前中のうちにショウライの設営が完成すれば、午後からは、花火も買出しです。これも子供たちが連れ立って町のお店まで片道1時間弱かかりながら歩いて買いに行きました。ある年などは、誰かが花火は峠を越えた山田村のほうが安いとか言い出し、わざわざ山田村まで歩いて買いに行ったこともありました。

 暗くなってきた夜7時30分頃、いよいよショウライの本番です。竹に火をつける前に、まずは花火大会。それぞれ買ってきた花火を子供たちみんなで楽しみます。そして、花火がなくなると、それぞれが藁を持ち、それに火をつけて「ショウライ、ショウライ」と叫びながら、その辺を走り回ります。たぶん、藁に火をつけて走り回る行為が、先祖の霊を迎えるという意味があるのだと思います。そして、最後にメインイベントとして、藁を縛り付けた孟宗竹に火をつけ、大きく燃え上がる竹をみんなで眺めて、ショウライが終了ということです。最後に竹が折れて倒れる瞬間はなかなかドキドキしたような記憶があります。

 当時は、ショウライの設営から本番まですべて小学生だけで実施していました。今から思うとすごいことをしていたなあと思います。今だったら、山火事や怪我の心配などで子供たちだけでこんなことをさせられないと思うのですが、当時は、大人がいい加減だったのか、それとも子供たちがしっかりしていたのかわかりませんが、とにかく、山里の少年少女たちはすごかったなあと思います。

 現在、私がかつて住んでいた集落では、大人が主体となってショウライを設営して実施しています。3本組みの本格的なもので、藁の代わりに森林組合から貰い受けた廃材などを立てかけ、盛大な火を燃やしています。ただ、室牧地区の中でも、ショウライを行っているのは今では3集落だけ。かつては各集落競い合って実施していたショウライも寂しくなりました。


[ トンボ捕り ] 

 低学年のときは、トンボもよく捕まえました。とくによく捕まえたのはシオカラトンボ。シオカラトンボを捕まえるのは網を使うのでなく、昔から伝わる子供たちの知恵の技。まず、なんとかしてシオカラトンボのメスを手で捕まえます。メスを一匹ゲットすればあとはオスを捕まえるのは簡単。メスのトンボに糸をつけて空中に飛ばします。そうすると、必ず、オスがやってきてメスと交尾しようとメスにくっつき、それを捕まえるというわけです。この技も今から思うと、生物学的見地にたったすごい技だと思います。

 オニヤンマはなかなか手では捕まえることができませんでした。近所に5歳ほど年上の上級生がいて、この人は手でオニヤンマを捕まえる名人でした。その技術にはすごくあこがれていました。私はオニヤンマを捕まえることができるのは、家の中に飛び込んでくるオニヤンマだけ。開けっ放しの家によくオニヤンマが飛び込んできました。

 同じ室牧地区の高熊集落にできた団地に引越ししてから9年。今ではあまりトンボを見かけなくなりましたね。昔はそこたらじゅうにトンボが飛んでいたような気がするのですが、トンボが減ったのか、それとも、大人になって少年の目の輝きがなくなって見えなくなったのかわかりませんが、真夏の太陽の下でトンボを捕まえていた頃が懐かしいです。


[ 川釣り ]

 本格的に釣りをはじめたのは小学4年生の頃から。それまでは父に連れられて釣りには行っていたのですが、4年生のころから友達同士で釣りに行きました。一番よく行ったは、室牧川の通称「ドンド」という場所。ここは水深が2,3mある深いたまりになっている場所で、釣りには絶好の場所でした。釣れる魚は俗称「ドベス」と言われているアブラハヤやウグイ、オイカワなど雑魚ばかりでしたが、初心者にはとても釣りやすい場所でした。500円ほどで買った安い竹の延べ竿に魚肉ソーセージを餌にして釣りました。魚はすぐに餌に食いつくのですが、餌がソーセージなので、合わせが悪いとすぐに餌を取られてしまい、子供にとってはなかなか釣りの腕をみがくには絶好の場所でした。

 それから、仁歩川にもよく行きました。ここはヤマメ狙いです。しかし、釣れませんでしたね。友達は釣りにいくたびにヤマメを釣るのですが、私に釣れるのはオイカワばかり。これは情けなかったですね。

 このときの釣りとの出会いが現在、釣りを趣味としている私の原点でした。雑魚釣りは小学校卒業と同時に卒業し、その後、本格的な渓流釣りにのめり込んでいった私ですが、雑魚釣りはやはり釣りの原点。息子が2歳のとき、何十年ぶりに子供と一緒に「ドンド」に行き、雑魚釣りを楽しみました。緊張感のある渓流釣りと違い、のんびりとウキを見ながらの釣りは楽しかったですね。


[ 夏休み ]

 ギラギラと輝く真夏の太陽、青い空、入道雲、むっとする夏草の匂い、うるさく鳴くセミの声、プールに響く子供たちの歓声、花火、スイカ、満天の星空、カブトムシ、トンボ・・・・・・。夏休みはは山里の少年達にとってまさしくパラダイスだったような気がします。とにかく、よく外で遊んだと思います。とりあえず、夏休みについて覚えていることをランダムに書き並べてみたいと思います。

 (夏休みにおける一日の過ごし方)
 まず、6時30分に神社でラジオ体操。そのあと、朝食をとってから午前10時までは自宅で夏休みの宿題。午後からは小学校のプールへ歩き,か又は自転車で直行。夏の太陽を浴びてプールで3時ごろまで遊び、自宅への帰り道では農協支店の売店でアイスクリームを買って、一休み。自宅に帰ってからは、集落のお宮で暗くなるまで、近所の子供たちと遊んでいたと思います。

(お宮での宿泊)
 夏休みには、年に1回、子供たちだけでの宿泊がありました。泊まる場所は集落にある神社。神社といってもちいさなお宮で、これが私の自宅のすぐ隣という立地でした。このお宮の中で、1泊するのが子供たちの行事でした。もちろん、親はいっさいかかわらず、全く子供だけでの行事でした。

 (夏休みの宿題)
 夏休みの宿題に「ヨモギ採り」というものがありました。ご承知のとおり、ヨモギの葉を乾燥させたものは「ヤイト」(関節の痛いところに少し乗せて焼き、痛みをとるもの)の材料である「モグサ」として使用されるわけですが、その乾燥させたヨモギの葉を2学期の始業式に持っていくことが宿題でした。各生徒に一人当たり何kgという指定があって、生徒が夏休みの間にヨモギを刈り取り、葉を取り、乾燥させて持ってこいというとのが宿題でした。
 しかしながら、実際のところ、小学生がそれだけの作業をすべてできるわけがありません。私の場合は6年間ほとんどが祖父がやってくれました。ヨモギ採りといってもなかなか大変な作業で、当時は草刈り機もない時代ですから、すべて鎌で刈らなければならないし、ヨモギの葉をしごいて茎から取る作業、さらに、取った葉をムシロの上に広げて乾燥させる作業などなかなか大変な作業だったと思います。もちろん、乾燥させれば軽くなりますから、学校から指定された重量になるまでは、かなりたくさんのヨモギの葉を集める必要があったと思います。
 2学期の始業式に各生徒が持ってきたヨモギは、体育館に集められ、当日中にヨモギ販売業者がやって来て、ヨモギを仕入れていくのでした。そしてヨモギ販売代金が、これまた、ワラビのときと同じように学校教材や各クラスでの遊び道具の購入代金となる仕組みでした。
 しかしながら、今から思えば、考えられない宿題ですよね。貧しい山里の小学校ならではの宿題ですよね。今の時代だったら、もし、こんな宿題を出せば、父兄から物凄いクレームが出ると思います。
 
(花火とスイカ)
 夏の夜、庭先で花火をして、そのあと家の縁側で家族全員が座ってスイカを食べたということが夏の日の思い出として印象深く残っています。今は亡き祖父・祖母、若かりし頃の父と母、2歳年上の姉、そして私の6人が夏の夜に涼みながら、幸せな家族団らんを過ごしていたと記憶しています。ときおり、家の灯りをめがけて、カブトムシが飛んできたときはうれしかったなあ。

(家族旅行)
今の時代と違って、家族での宿泊旅行というものは全くありませんでしたね。家族で出かけたのは日帰りの海水浴ぐらい。あと、2年生のときに私1人が父に連れられてテントを持って立山登山に行ったことがあったぐらいでした。


秋 〜 秋の味覚はやっぱりアケビ


[ アケビ採り ]

 秋の一番の楽しみはなんといってもアケビ採り。種ばかりあってまずいという人もいますが、甘味に飢えていた山里の少年達にとっては、甘いの強いアケビは大好物でした。ただ、アケビは、なかなかワラビのように簡単に採れる場所にはなく、主に谷沿いの木に蔓がからまってなっており、採る時は、木に登ってとる必要がありました。子供のときはみんな平気でアケビがなっている木によじ登り、猿にでもなったかのようにアケビを採っていました。今から思えばよくあんな高い木に登っていたと思います。自分の息子にメタボと言われている今日この頃、なかなか恐ろしくて木登りはできなくなりました。
 とにかく、近所の子供たちと一緒に山に入り、大きなアケビがたわわになっている木を見つけたときは最高でしたね。一番いいアケビは、大きくて紫色、少しだけ口が開いているアケビ。これが一番おいしくて食べ応えがありました。時々、採りに行く時期が遅れて、中身がすべて落ちてしまっているアケビを見つけたときは、なんで先週採りにこなかったんだろうとくやしがったものでした。

 さて、アケビの正しい食べ方を説明します。やっぱり、アケビは採った現地でその場で食べる。そして、中身を口に含み、アケビの甘味を充分味わった後、思いっきり種を遠くに吐き出す。これが正しい食べ方です。自宅に持ち帰って食べると、どうしても思いっきり種を吐き出す場所もないので、なんだかアケビおいしさを充分に味わうことができません。

 社会人になってからも、毎年、アケビを採りに行っているのですが、子供の頃に行った場所のアケビも、だんだんと木の上のほうにばかり実をつけるようになり、今の自分では採れなくなってきました。最近は、車に乗って少し遠出して、アケビを探しています。

[ 栗拾い・胡桃(クルミ)拾い ]

 アケビ採りと並んで、栗拾いにもよく出かけました。今から思えば村の誰かが所有している栗の木だったのだろうと思いますが、当時の子供たちにとっては、山にあるものはすべてみんなのものという発想でしたので、誰の所有なんて全く気にせずに山へ栗を拾いに行きました。もちろん、山にある栗は小さな実の「柴栗」でしたが、大きな「丹波栗」とは違い、味はよかったと思います。拾った栗はその場で生で食べたりしましたが、ほとんどは自宅に持ち帰り、茹でて食べました。時々、稲刈りが終わった田んぼで籾殻を燃やしていたときなどは、その籾殻の中で焼いて食べたりしました。籾殻の中で栗が爆発するのが面白かったですね。この焼いて食べる栗が一番おいしかったような気がします。

 それから、胡桃拾いもよく行きました。落ちている胡桃は殻の外側に黒く腐りかけの外皮がついているので、拾ってきてすぐには食べられません。拾ってきた胡桃は自宅の横の畑の一角に穴を掘り、その中に埋めて1〜2週間ほどして外皮を完全に腐り落ちてから、掘り出して食べました。食べ方としては、生のままではなかなか殻が割れませんので、焚き火の中に放り込み、真ん中に割れ目ができてから、そこにナイフを入れて割ってから食べていました。


[ 柿取り ]

 柿もよく取りましたね。自宅に水島柿と富有柿の2本の柿木があって、よく、その木に登り、柿を取りました。今から思えば、よくあんな上のほうまで木に登れたもんです。木に登って、先端が割れている通称「ハサンバリ」という竹を使って柿を取っていました。しかしながら、あんなに実をつけた柿の木も、中学生の頃に切ってしまい、今はもうありません。


[ コイ釣り ]

 小学5年生の頃だったか、ダムでのコイ釣りにはまりました。一番よくコイが釣れる室牧ダムまでは自転車で約30分。ダムにたどり着くまでは上り坂ばかりの非常に疲れる道のり。でも、汗をかきながらよく行きましたね。
 室牧ダムで一番よく釣れた場所はダムサイトの上。ダム本体に向かってたまっている流木の真下に餌を投げ込みコイ釣りをするのです。流木のゴミの下には、コイがけっこう群れており、けっこうコイが釣れました。当時は、今と違ってダムサイト(ダムの堤体)の上に自由に入ることができて、ダムの管理人に釣りを止められることもありませんでした。ただ、ここでの釣りのネックは大物がかかたっときの対応。コイがかかればそのまま20、30m上まで上げるため、途中で糸が切れたり、コイの口が切れて針がはずれたりして、コイを釣り落としてしまうことがあるのです。
まあ、私の場合はこのダムサイトでの釣りで大物がかかったことはありませんでしたので、そんな心配は必要ありませんでしたが・・・・。

 ダムサイトでの釣りでの思い出をひとつ。たしか、6年生のだったと思いますが、同級生と私の2人でダムサイトに釣りに行き、なぜかその日は私の竿には全くあたりながなく、同級生はメチャクチャ釣れたことがありました。同級生はうれしがって自慢ばかりするし、こっちは釣れないので悔しくてたまらないし。このとき、小学生ながら、私は決心しました。「やっぱり、釣りは一人で行こう。」

 結局、当時、コイ釣りで大物はなかなか釣れなかったのですが、コイ釣りで一番うれしかったのは、1人でダムに釣りに行って、錦鯉を釣ったときでした。そのときは、ダムサイトの上からではなく、ダム湖のほとりで1人で朝から粘って釣っていて、30cmぐらいの黄金色のコイが釣れたのでした。これはうれしかったですね。


[ 稲刈り ]

 田植えの手伝いはほとんどありませんでしたが、稲刈りはけっこう手伝わされました。稲刈りは田植えと違って近所の人達が手伝いにをするという制度はありませんでした。したがって、家族だけで稲刈りを完了させなければなりませんでしたので、子供も手伝いに借り出されたというわけです。

 私が小学生の頃は、我が家にはコンバインというものはありませんでしたので、もちろん手刈りです。稲刈り鎌を使って順番に刈り、そして1束に縛る。そして、12束ごとに「チガイ」という縄でしばる。その12束まとまったものを一輪車に乗せて耕運機で牽引するトレーラー(荷台)まで運びそこれに積み込む。トレーラーに積んだ稲を「はさ」まで運び、それを「はさ」に掛ける。これが稲刈りにおける概ねの一連の作業です。私達子供がおもに手伝わされた仕事ははさ掛けでした。「はさ掛け」での作業では、低いところは自分達ではさに稲を掛け、高いところに掛ける場合は稲を投げる役目だったと思います。
 稲刈りは晴れた日しかできませんので、暗くなるまで手伝わされたときもあったと思います。高学年になると、父に耕運機の運転を教えてもらい、トレーラー(荷台)を牽引した耕運機を運転させてもらうこともあり、なんだか大人になったような気がしたものです。もちろん、稲を載せていない空荷状態でしたが・・・・。

 はさ掛けした稲は約1週間から2週間、はさの上で自然乾燥させ、そのあとははさから稲を下ろし、また12束ずづしばってトレーラーで自宅まで運び、自宅の作業所で脱穀、籾摺りと一連の作業が行われるのでした。脱穀、籾摺り作業ではほとんど子供の出番はなく、祖父や父母の仕事でした。

 私が中学生ぐらいのときに、稲を刈って縛るという機能を持つ「バインダー」という機械がやっと我が家にも登場しました。これは一番しんどい手刈り作業を機械がやってくれるので、画期的でした。しかし、その画期的な機械もほかの農家では短い運命で、その後、コンバインが登場し、近所で「はさ掛け」をする農家はだんだんと少数派に。しかし、我が家は貧乏ですからコンバインを買うお金もなく、ずっとバインダー稲刈り=はさ掛けを続け、我が家にコンバインがついに登場したのは、私が社会人になって3年目・昭和63年の秋でした。

 今から思うと手刈りで稲を刈り、はさ掛けをしていた時代が懐かしいですね。我が家にとっては一年に一度の大イベントの日。子供ながらに家の仕事を手伝ったという充実感。家族総出の農作業。親子のコミュニケーションの場。親父やお袋の働く姿。作業内容や段取りをめぐっての親父とお袋の喧嘩。秋晴れの下、稲刈りの休憩時に食べた自宅の畑で取れた季節はずれの甘くないスイカの味。稲を積んだトレーラーの上に乗っての移動。稲わらの匂い。台風で倒れたはさの無残な姿・・・・・・・・。いろいろな思い出が稲刈りに詰まっています。大人にとっては、稲刈りはたいへんだったと思いますが、子供にとってはなんだかお祭り気分だったような気がします。

 といいながら、中学生、高校生になるにつれ、なんだかんだといって稲刈り作業をサボってばかりいた自分でして、今から思えば親父やお袋に悪いことをしたなあと思っています。


[ 神社の境内での遊び ]

 自宅のすぐ横に集落の神社(私達は「お宮さん」と言っていました)があり、小学生の頃はよくこの神社の狭い境内で遊びました。この境内では通常の遊び、「鬼ごっこ」「だるまさんがころんだ」「かくれんぼ」「三角ベース野球」などはもちろんやりましたが、それ以外に私の子供時代ならでは遊びがありましたので、紹介したいと思います。

(地面取り)
 当時、自宅の横の神社の境内は、赤土が入ったばかりのグラウンド状態で、ほとんど雑草が生えていませんでした。ここで低学年の頃、よく遊んだのが「地面取り」という遊びです。遊び方は、まず、棒で境内全面に長方形のコートを書きます。そして、4人で遊ぶ場合は、それぞれの4つ角に、その角を中心として、自分の足のサイズを半径とした扇形の円を書きます。まず、これが自分の陣地になります。そして、小さな小石を拾い、この陣地を基点として、小指で小石を3回はじき、そのはじいた小石の軌跡を陣地として広げていくという遊びです。もちろん、3回目にはじいたときに、その小石が自分の陣地に戻ってこなければアウトです。参加者が順番に小石をはじき、最終的に誰が一番自分の陣地を広げたかを競う遊びです。最初から大きく陣地を広げたいときは、強く小石をはじき遠くに飛ばせばいいのですが、3回目に自分の陣地に戻らなければならないので、なかなかうまくいきません。小心者の私はせこく短い距離で小石をはじき、コツコツと陣地を広げていくタイプでした。

(十文字)
 小学校4年生の頃、近所の遊び友達の従兄弟が教えてくれ、一躍ブームとなったのがこの「十文字」という遊びです。遊び方としては、まず、境内に棒切れで正方形のコートを書き、その正方形のコートの中に、幅50cmほどの十字を書きます。これでコートは完成です。ルールは、その幅50cmの十字が鬼となった2人のいる場所となり、そのほかの者は十字以外の部分(つまり四角の升目4つ分)がいる場所となります。そして、最初の升目に鬼以外の全員が集まって、半時計回りの方向で鬼がいる十字を踏まずに4つの升目を回り、鬼にタッチされずに5週すればOKという遊びです。もちろん、鬼にタッチされた者はコートから出て見学、誰かがうまく5週すれば、鬼になった者は、また、鬼をやらなくてはいけないというルールでした。文章にするとよくわからないかもしれませんが、非常に盛り上がった遊びでした。学校から帰ってくれば、必ず、神社の境内に10名程度の子供たちが集まり、暗くなるまでこの十文字で遊んでいたものでした。

冬 〜 子供の頃は雪はそんなに嫌いじゃなかったなあ


[ 雪 ]

 八尾で初雪が降るのは、だいたい11月下旬頃。朝、起きると、庭先にうっすらと雪が積もっている状態。小学生のときは初雪はなんだかうれしかったですね。初雪はうっすらと積もる程度で、わずかの雪を集めて、雪球を作ったりして、遊びながら学校に通ったものでした。しかし、小学生のときには素直に喜べた初雪も、中学生になったときは最悪でした。当時、中学校までは約5kmの道のりで、自転車で通学していたのですが、雪が積もれば自転車に乗れないため、朝、7時20分頃のバスに乗るために早起きして、7時頃には自宅をでなければならなかったので、大変でした。初雪が降った日などは、無理して、自転車で学校に行き、下り道のカープで何度もコケながら学校に行ったものでした。
八尾で本格的な根雪になるのは、12月中旬から下旬頃。このあと3月の上旬まで雪に閉ざされた生活が始まるのでした。今から思うと、あの頃、たくさん雪が降ったなあと思います。当時は、行政による道路除雪も3日か4日に1回程度しかきませんでしたから、車道は人が歩けるだけの一本道。子供たちが学校に行く前に、集落内の大人が交代で通学路を確保するために、カンジキを履いて道を作ってくれたものでした。それにしても、昔の人達は偉かったなあ。

屋根雪下ろしも何回もやっていたような気がします。小学生のときは屋根に上がった記憶はありませんが、中学・高校のときは手伝いましたね。低そうに見える自宅の屋根も、実際上がってみると、なかなか高度感があって、慣れるまで怖かったものです。屋根雪下ろしをしたあとは、落とした雪が下の屋根に届くくらいになっているので、今度はその雪を田んぼまで運ばなければならず、自宅の大門道や父の車の駐車場の除雪も含めて、冬の間は家族じゅうが雪との格闘でした。それでも、小学生のときは、遊び半分で除雪作業をしていましたから、それほど苦痛ではなかったような気がします。


[ 餅つき ]

年末の恒例行事はやはり餅つき。子供のときはなんだかうれしかったですね。庭先で、かまどで薪を燃やし、セイロでもち米を蒸し上げ、蒸したもち米を臼に入れて杵でつく。そして、つきあがった餅で鏡餅や切り餅、大福などを作る。この一連の作業がなんだか子供心にワクワクしたものでした。私が好きだったのは、大福とつきたての餅をダイコン
オロシに入れたオロシ餅。おいしかったですね。それとかまどで火を燃やすのも楽しかったなあ。


[ スキー ]

 私達が子供の頃に使っていたのは、いわゆる「長靴スキー」というやつで、長靴をスキーの金具というかバンドに固定する仕組みのスキーで、かかとは固定されない「テレマークスキー」のようなスキーでした。小学校の高学年の頃になってクラスの何人かがちゃんとしたスキー靴でのスキーを履いていたというような状況でした。もちろん、私の場合は6年間長靴スキーでした。そして、今と違って親がスキー場に連れて行ってくれるという生活的余裕もなく、私がスキーをしたのは、近所の棚田の間を通っている急傾斜農道か、あるいは雑木をを伐採したばかりの山の斜面でした。もちろん、スキー場とは違いますから、滑る前にみんなでスキーを横にして雪を踏み固め、1回上から滑ると、また、スキーで歩いて上に上る。この繰り返しでした。でも、みんな、楽しんでいたと思います。スキー場のリフトの楽さ加減を知らないから、上まで歩いて登るのが当たり前でしたから。でも、農道で滑るときは、ターンするほど道幅がないから、みんな直滑降ばかりだったような気がします。

学校でもスキーの授業がありましたが、スキー場へ行くのではなく、学校の近くの山の斜面でスキーをしていました。年に1回、そこで学校主催のスキー大会とかも開催されていたような気がします。

いずれにしても、私はスキーは下手でしたね。大人になってからも、スキー場に行かずに、テレマークスキーで近所の山の林道で遊んでいます。人が大勢いて音楽がガンガン流れているスキー場よりも、静かな森の中で過ごしているほうがなんだか幸せを感じます。


[ シンバリバシ ]

 2月の中旬くらいになると、日中に解けた水が翌日の朝方の冷え込みで凍り、雪の上に人が乗っても沈み込まなくなる状態になります。これを私達の方言で「シンバリバシ」といい、子供たちにとっては、楽しい遊びのフィールドとなるのでした。朝、起きてシンバリバシになっていると、まず、学校に行く前に雪の上を歩いて、まず、シンバリバシのを実感します。そして、学校に行くときは水稲の肥料が入っていたビニール袋を持って、集団登校の集合場所へ。そして、みんなで学校に向かうわけですが、誰も道路を通りません。雪の上が歩けるわけですから、田んぼや畑の上を歩き、斜面があれば、ビニール袋をソリにして滑っていく。とにかく、普段歩けないところがどこでも歩けるわけですから、楽しかったですね。休日なんかは、シンバリバシになった田んぼのうえを自転車に乗ったりしていました。ただ、シンバリバシが楽しめるのも、午前9時ぐらいまで。それ以降は雪が柔らかくなってダメですね。


その他 もろもろ

[ シャモとチャボ ]

我が家では、私が中学生の頃までニワトリを飼育していました。飼育していたのは、普通の白いニワトリではなく、一回りちいさいシャモとチャボです。だいたい常時10羽から20羽ぐらい飼育していました。もちろん、卵も食べていました。ひよこが生まれるとうれしかったですね。大人のシャモとかはなかなか精悍な顔つきで性格もきつかったのですが、ひよこのときはなかなかかわいかったですね。小屋から外に連れ出して遊ばせたり、草をやったりしていろいろとおせっかいな世話をしていたものでした。


[ 五右衛門風呂 ]

 我が家の風呂は薪を燃やしてお湯を沸かす五右衛門風呂でした。五右衛門風呂に入るときは、人が二人ぐらい立てるほどの板を浮かべ、それに乗って風呂に入っていました。もちろん、風呂釜に触れると熱いですから、釜に触れないようにして入っていました。シャワーなんてもちろんありませんでした。

[ 手作り味噌 ]

子供の頃は、味噌も自宅で作っていました。詳しい作り方は覚えていませんが、印象に残っているのは、茹でた大豆をすり潰す機械。茹でた大豆をすり潰し機に入れ、ハンドルを回すとうどんのような状態となって潰された大豆が出てきます。これがなんだかおもしろかったですね。