|
![]() |
![]() |
境内には杉の大木が林立し、古社の風格を滲ませている。数年前の旱魃により数本の杉が枯れ、それ以前と比べると閑散とした感が否めないが、それでも厳粛な雰囲気は損なわれていない。
|
|
![]() |
![]() |
ここの神殿に安置されている御神体は県の重要文化財に指定されている。立山杉の一木造りによる装束姿の老翁像で、表情は穏やかな中にも ここの社名額に刻まれている文字は他二社とは異なっており、「杉原神社」ではなく「木久原神社」となっている。この「木久」という漢字も「すぎ」と読み、「杉」と同意に扱われているため、特に気に留めることはないかと思われる。 文献を見ると、延喜式に記載されている杉原神社を黒田の社とするものと、田屋の社とするものとに分かれている。風格からすれば黒田の社と見られるが、神像を有するのは田屋の社である。しかし、神像は平安時代の作であり、杉原神社の歴史はそれ以前に遡るため、これも決め手には欠ける。(黒田の杉原神社の御神体は年代不詳の石像である。)また、田屋の地名を「旅屋(たびや)」の縮まったものと解釈すれば、辟田彦辟田姫伝承と照らし合わせて考えると本社は黒田の社ということになる。だが、三社が3km足らずの間に鎮座していることも鑑みれば、敢えてどの社が本社だと特定することに深い意味はないようにも思える。 境内入り口には御神体と御祭神に関して記述した立て札があり、それを覆うように桜の木々が立ち並んでいる。春の祭礼時には、この桜の蕾が膨らみ、やや閑散とした境内が明るく華やかな雰囲気を盛り立て、華やいだ祭りの演出を担っている。 |
|
![]() |
![]() |
この浜ノ子の杉原神社に関しては、種々文献等を調べてみてもあまり詳しい記述がなく、祭神を見ても他二社が「久々能智神」が主であるのに対し、「奥津那藝佐彦神」「邊津甲斐辨羅神」と、かなり異なっている。これら二神は共に海の神であり、地名に「浜」とあることから、ある時期に海縁から移住してきた人々が、それまで祀っていた氏神をそのままこの地にお連れして、この地の氏神「杉原神」と合わせ祀ったものと推測できる。また、浜ノ子の杉原神社が黒田、田屋、両杉原神社を結んだ直線上にぴったりと位置していることから、他二社の後から計画的に建立したものと考えられる。このあたりは推測の域を出ないが、延喜式に浜ノ子の杉原神社を記した文献がほとんどないことからも、他二社より時代が下る可能性が高い。
黒田、田屋の両杉原神社のほぼ中央に位置しているのが、この浜ノ子の杉原神社である。
この浜ノ子の杉原神社には、他二社と異なり、杉原社家ではなく野上社家が奉職している。古くより(天保年間以前(-1681))、この神社には野上氏が奉職してきており、それを継承したものであろう。野上氏は享保年間(1716-1736)に上新川へ移転しているため、現在の野上社家は明治維新の神仏判然以降、再び奉職するようになったものと思われる。徳川幕府の寺請制度が地方に浸透し、寛文年間(1661-1673)には婦負郡細入村片掛村の真言宗長久寺の僧が別当として奉職するようになり、以後、明治まで奉仕を続け
た。
|