とんがり帽子

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富山県 ハーモニカ 風のトレモロへようこそ・・・久しぶりに第25回演奏会が北日本新聞社ホールで開催されました。
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==== 気ままに記述 ====
  
 ハーモニカとの出会い (2002年記)
道楽者 (2003年記)
クラシックカー (2003年記)
18歳と81歳の違い (2018年記)
ご挨拶(2021年4月記)
首切り(2022年5月記)

ハーモニカとの出会い                                                 
 大正元年に生まれた一番上の兄が戦死したのは、 昭和二十年の春でした。 当時、 土壁が剥き出しの我が家の居間で母や義姉を囲むようにして近所の人たちが戦死の公報を受けて泣いていたのを思い出す。
 数十`離れた町の空襲で、山間の空が真っ赤に染まりB29の爆撃機が飛び交うようになって間もなく終戦を迎え、二番目の兄が戦地から帰ってきた頃、私が小学校二年の時だった。
 その二番目の兄が私に一本のハーモニカをくれた。 兄がいつ頃からハーモニカを吹きはじめ、どんなメロディ ーを吹いていたのか記憶にはない。古めかしい一本のハーモニカを直接兄の手から受け取ったときの感激は今でも脳裏の片隅に焼き付いている。その兄は結婚して間もなく戦争での病を引きずりながら他界した。
 「鳩ポッポ」 が吹けるようになった頃、昭和二十二年NHKの連続放送劇がはじまった。 夕方になると「とんがり帽子」の歌がラジオから流れ、 遊び疲れた身体を揺さぶりながら微かに聞こえるラジオの前に飛んで帰ったものでした。
 <キン・コン・カン・コン・・>の鐘の音から始まる「とんがり帽子」のメロディーが、脳裏から離れないものになったのは、公民館の巡回映画で映し出された「鐘の鳴る丘」を見てからであった。
 四歳にして父を急性肺炎で亡くし、 二人の兄を戦争で亡くした自分の境遇と戦災孤児となった少年の生きざまを重ねて見ていたのか、 小さな垂れ幕に映っていた≪クロちゃん≫に頑張れと声援を贈り、涙して見ていた頃を思い出す。
 手入れもせず、音程も狂いかけた兄の形見ともいえる一本のハーモニカで、ようやく「とんがり帽子」が吹けるようになったのは小学校六年の頃でした。
 (2002年記) 
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道楽者  
 
中学卒業の文集で兄の腕時計を分解して時計の仕組みを数行の文面にした。
時の先生が<機械いじりが好きな子であり、出来れば進学を>と母等に進めたようだ。 結局、某高校の電気課へ入学、母等の出稼ぎと兄等の遺族金で無事卒業となるのであるが、教科書や文具、映画を見る小遣いなど、使った費用を一年間記帳した記憶がある。結構多く使い<道楽者>の火種があったようだ。
   就職は運輸の職場、仕事の内容は信号関係で、機械・電気・電子制御など、設備の高度化、その変遷に直接携わってきた。無難に列車を安全に走らせる傍ら、組合運動でも奮闘。趣味としては、初老からは三味線にも触れ て、一般民謡や「おわら」を奏でてきた。退職五年ほど前から現在のハーモニカ教室に通うなど、二足も三足もの草鞋を履いて41年間、何とか無事に定年まで完走できた。
   この様を<道楽者>とサイが言う。辞書によれば、(1)酒色・ばくちなどにふけり、身を持ちくずしている者。(2)怠け者。  とあるが (3)項目として、「家庭を省みず我が道をいく者」 と、あえて追記すればズバリ<道楽者>である。
   善し悪しは別にして、<道楽>の道を見極めて行こうと思う限りは、孫をはじめ終生の伴侶、家庭に対してもっと生活の比重を置かないと、我が人生の変遷の記述に<道楽者>であったと付け足されそうである。 因みに<道楽>を辞書によれば、趣味を楽しむこと・・・とあり、<・・者>がとれるように努力したいと思うが容易でない。
(2003年記) 
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クラシックカー 
  
・・・・もフランスの一角で600Kmを越えるコースによるクラシックカーのラリーが行われ、NHKで放映された。ラリーは平坦な道程ではなく山あり谷あり、雪と氷の過酷なコースで全車の完走は容易でない。
 クラシックカーその実態は、1925年〜40年頃に造られた、それは鍛えられ磨かれ美しく輝く車の集まりであった。ラリーはその車の能力に応じて一定の条件の下で如何に目標に向かって完走するか、ラリーの頂点に達してみたいという挑戦の競技でもある。
 運転する人も高齢者・クラシックで、四泊の行程では参加者同士の交流や激励など、和やかな雰囲気につつまれ、この有様は趣味を共有するすべての生きざまに似ている。
   ハーモニカ教室に集まる人たち、その大半は、大正後期から昭和初期の方々で、若き頃にハーモニカを嗜み、或いはハーモニカの音色に触れて訪れた人たち、まさにハーモニカを奏でる人、小さな楽器もクラシックである。教室へ足を運ぶ動機は様々であるが、趣味を共有する人達の集いでもある。
   ハーモニカの調子が狂えば直すことは容易であるが、身体の調子が狂えば体調を整えるために休息しなければならないときもある。家庭環境など、やむを得ない状況に遭遇し完走できなくなることもある。だが趣味を共有する仲間に変わりはない。
 メロディーが判れば楽しく吹けるハーモニカ、ポケットに入る 大きなオーケストラとも言われ、その美しい音色、この魅力あるハーモニカを、それぞれが、自らのペースで自ら定めた目標に向かって、みんなで楽しく完走したいと思う。
(2003年記) 
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18歳と81歳の違い・・・下線の箇所をクリックし見てください
  
 久々の記述、2018年傘寿を迎えた。 ❑道路を暴走するのは18歳・逆走するのが81歳。❑恋に溺れるのは18歳・・風呂で溺れるのは81歳。 そんな歳になりました・・。「笑点・大喜利より抜粋」 
 さて、今から9年前 (2009年〜) に半年の間を置いて二回も脳梗塞を体験した。幸いにして軽くて後遺症も少しだけで済んだ。当時は、毎晩のように焼酎のお湯割を飲みながら深夜にわたってパソコンを扱っていた。 ある日の晩、パソコンのマウスを動かしているが、画面のカーソルは動かない!機器が壊れたのかと思ったが少し右手の動きが鈍い、酒に酔うて痺れたのかと思って寝てしまった。翌朝になって隣部屋まで歩いて行き、パソコンに向かおうとした途端、長いすに倒れた!右手右足が動かないのだ! 直ぐに婆さんの運転で近くの総合病院へ運んでもらった。その様子は当時のページに掲載していた、「酸素カプセル」に入った写真には、幼い孫等の写真も映って居るが懐かしい・・・・。幸いにして2週間程度の入院で、リハビリも行い手足も動くようになり、演奏活動に復帰し今日に至る。
 数年前から演奏活動の演目で「脳卒中啓発ソング」替歌を取り入れている。この替歌は、静岡県水谷脳神経外科医の院長さんが作詞され、ネットで知りメールで普及の許可を得て演奏していますが、その二番目の歌詞「半身利かないしゃべれない、片側、突然キーワード、夜でも寝てても気付いたら、朝まで待たずに病院へ!」・・・あの時、この歌詞を知っていたら翌朝を待たずに病院へ行ったと思うし、気だるさなど後遺症は全く無かったと思われる。
 初めて脳梗塞になった頃、造影剤で血管の流れを検査した。その時に「頚動脈狭窄症」が判っていたが何故か?9年間あまり放置されてきた。その写真を見る限り相当に細くなっている・・・。最近になって特に身体の偏重も無かったが、他にも同じような症状が有るかどうかを含めて精密検査を 勧められて検査し た。その結果、他に異常は認められず 、このまま放置するか処置するかを問われて、最終的に頚動脈ステント留置術による方法で手術をする事にした。
 さて、この方策は医学の進歩により十数年前から実施されているが、リスクを伴うのも事実。そのリスクは想像しか出来ないが、ここで表題に戻ろう・・・ 前述の「笑点・大喜利」に、「東京オリンピックに出たいと思うのが18歳、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81歳」という文面もある。無難に過ごしていきたいと思うのが傘寿 ?
(2018年5月13日)  
 追記、5月16日、頚動脈ステント留置術を実施し一週間の入院を経て退院した。気持ちの問題なのかどうなのか未だ定かでないが、右足に鉛をつけて歩いていたような状態が軽くなったような気がする。手術後の経過は上々で、在る友から<再検査を勧めた女医に感謝すべきでないか >と助言を戴いた。
 ハーモニカ教室や演奏活動に、なるべく支障しないように日程を選定して約10日間休養。この間、助言や励ましを頂戴し、施した担当医師「頚動脈ステント留置術」に感謝!
(2018年5月24日) 
 

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                         2021年4月29日
                              県ハーモニカ指導者協会
                              会 長  安 藤 俊 一
ご挨拶

皆さんこんにちは、
昨年の12月28日。3度目の脳梗塞になりました。自分でもはっきりしないが、家の者に言わせれば、少し異常な状況だといわれた。其れで1月に病院の検査などを受けて再度入院となったが、なぜ入院しなければならないのかがよくわからなかった。それで1月25日に入院し2月5日退院することになった。その結果は、これまでの脳の空白部分が倍になっていたというものでした。
 思い起こせば、2009年に静岡で行われた国民文化祭に富山県から2チーム参加。武部先生をはじめ、27人参加したわけですが、その年 、2月と7月、二回の軽い脳梗塞になりました。そして11月3日に静岡の浜松へ行きまして、皆さんで演奏したことを思い出します。
 病み上がりでどうなることかと心配しましたが、おわらの独奏など含めて何とか果たせました。今回の脳梗塞は3度目で、まだ軽いほうだと医者は言います。十数年間も、足がだやい、気だるいと言って、訴え続けてきましたが、これが脳梗塞の後遺症とは、今でも思えません。手足も動くし、一定の力もあるのに・・・
 さて、一昨年から新型コロナウイルスの拡大感染が猛威を奮い、大都市では3度目の緊急事態宣言が発せられ、富山県に於いても日々に多発する様相です。昨年の総会が伸びまして2年になり、各行事・集会などの自粛要請が叫ばれ、ハーモニカ演奏活動に支障をきたし、十分に演奏はできずに、誠に寂しい限りです。指導者協会がこれからどうなるのか、皆さんで決めていただきますが、私のハーモニカ人生は、これで終わりにしたいと思います。たまには吹いたりしますが、大きな節目として終わりにしたいと思います。
 皆さん方には、本当にお世話になりました。ハーモニカの演奏も武部さんから、分散和音にも挑戦されよと勧められたが、脳梗塞などの関係で、まともにならず、分散もどき程度にしかなりません。
 しかし、ハーモニカの音色は好きであり、誰にも負けぬほどに愛着を持っています。かといって、すべてを放棄しません。ハーモニカの楽譜作成などのお手伝いは、身体の許す限り、ボケてはいませんので、頑張っていきます。
 また、できる限りホームページも維持してまいりますので、皆さんのご協力をよろしくお願いします。皆さんの活躍を陰ながら応援させてもらいます。(文書で提出)  
               以上
                                    (2021年4月記)
                    
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首切り
 さて、昨年もこの時期に大学病院に1月25日から入院し2月5日退院。だんだん入退院の周期が短くなり 、そろそろお迎えの準備に入ったのか〜。
2021年12月29日大学病院に入院。2022年1月10日を迎え、丁度年男で84歳となった。

 そして2022年1月19日に首の手術をすることになる2018年は右首の辺りでステンドを挿入する手術だったが、今回は首を切っての手術である。 当日の朝8時半に手術室に入って、医師に起こされたのは、午後3時ころであった。全く目が覚めるまで身に 覚えがないと言う事は、初めてのことであり、つまり全身麻酔の手術は初めての事であり、知らないうちにあの世へ行ってきたと思うだけである。もし目が覚めなかったら・・・。 我が人生は84歳で終止符を打つことになる。家庭の事情で余裕を以て3月1日退院した。

 退院時に内科の医師に心臓の近辺に血管が細くなっていることを告げられた。 よくぞやたらに、血管が細くなり勝ちてある。4月5日から7日に再び入院し、ステンド挿入する手術を6日に行うことになった。

 結果的に6日の手術は、ステンド挿入は日常生活に支障がないとのことで、手首の血管から細い管を通して検査だけになり、ステンド挿入はしなかった。
 

20222年追記

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